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    大切な存在との“出会い”と“喪失” 大切な存在との“出会い”と“喪失”
    それぞれの孤独を抱えた者たち。アロマンティック・アセクシュアルであり、恋愛というものに実感を覚えられないまま、唯一の理解者と思えた相手との結婚を決めた女性。親友を愛したまま、彼女と“別のかたち”で生きることに懸けたが、自らの内に激しい欲望の渇きを隠し自死した男性。社会的な成功を手に入れながらも、ある葛藤を抑圧させて強権的に振る舞う親友。
    それぞれの孤独を抱えた三人の男女が、すれ違いながらも必死につながろうとする関係は、“生と死”を超えてどこへ向かうのか     

    等身大の日常を見つめながら、まったく新しい領域に踏み込む傑作が日本映画界から登場した。これはラブストーリーなのか、ヒューマンドラマなのか。ここで扱おうとするのは、どんな言葉でも名付けられなかった感情のかたち。現実の隙間から雫のようにこぼれ落ちる、焦燥や絶望、生きづらさの滴りを、この映画はどこまでも丁寧に掬い取っていく。その繊細な作業の徹底性こそが、我々を一筋の光が差す希望の在り処へと導いていく。

    主演を務めるのは注目の実力派俳優、福地桃子。主演映画『恒星の向こう側』(中川龍太郎監督)にて、第38回東京国際映画祭コンペティション部門 最優秀女優賞を受賞。また舞台『千と千尋の神隠し』(24)などで主演を務め、iPhone 16 Proで撮影された是枝裕和監督の短編映画『ラストシーン』(25)でも絶賛を浴びた彼女が、本作では当て書きされたヒロインの香里を演じる。そして、『菊とギロチン』(18)などの演技で新人俳優賞を総なめして以来、『ナミビアの砂漠』(24)や連続テレビ小説『ばけばけ』(25)など活躍の場を広げる寛一郎が、香里と特別な絆を結ぶ健流を演じる。彼らのセンシティブな表現力は確実に観る者の胸を打つだろう。
    Storyストーリー
    海沿いの街を旅する香里(福地桃子)と健流(寛一郎)は、恋人というより、どこか家族のようだった。だが入籍が近づいたある日突然、健流は自ら命を絶つ。お互いにとって一番の理解者だと信じていた香里はショックを受け、健流と出会う以前のように他人に心を閉ざす。そんな中、香里は健流の親友であったという作家・中野慎吾(中川龍太郎)を思い出し、彼の元を訪ねる。健流の知らなかった一面を知るために、ふたりは街を巡り    
    Cast
    キャスト
    渡辺香里役
    福地桃子
    鈴木健流役
    寛一郎
    中野慎吾役
    中川龍太郎
    篠塚真悠子役
    兒玉遥
    田口役
    遊屋慎太郎
    トウジ役
    緒形敦
    直也役
    長友郁真
    中野沙月役
    朝倉あき
    鈴木千代子役
    筒井真理子
    Staff
    スタッフ
    監督・脚本
    竹馬靖具
    原案・出演
    中川龍太郎
    プロデューサー
    菊地陽介
    音楽
    冥丁
    「クリシェとしてクィアの人物は悲劇・死に結び付けられやすい」「表現は現存するステレオタイプ・差別を助長しうる」という社会的・歴史的な背景を踏まえた時に、とりわけクィアへの偏見が根強く残る日本社会の中で、“クィアの死”を描くことができるのか、というのは本作の課題でした。
    今もなお、クィアにとって死が隣接する社会に生きる(その社会を持続させてしまっている)私たちは、「センセーショナルで」「現代的な」「社会課題を掘り下げた」的な言葉とともに無思考にクィア並びにマイノリティを描くことの攻撃性や権威性を常に指摘されるべきです。開き直って「それでもなお表現の自由を遵守すべし」と宣誓するような態度をとるのではなく、どれだけ言葉を尽くしても非当事者による簒奪の再生産になりうるということと向き合い続けるしかありません。
    本作の健流というキャラクターはクィアであり、彼は自殺をします。
    フィクショナルな物語(作劇者が自由にキャラクターを生み出せる)で、なぜ健流はクィアであったのか?
    それを製作者として言葉にするところから始めたく、この文章を書いています。しばしお付き合いいただけると嬉しいです。
    プロデュースをした『世界は僕らに気づかない』という作品では、フィリピンダブルでゲイの主人公とそのパートナーが幸福な結末を迎えます。
    監督の飯塚花笑さんとは何度も議論をして「主人公たち(クィア)は絶対に幸せな結末にしましょう」と決めて、「悲劇的な展開」という形でクィアのキャラクター及びその人生を消費しないように作劇を積み重ねていきました。
    今でもその結論は間違っていないと信じています。
    同時に、『世界は僕らに気づかない』の公開や反応を通して、フィクションの中でどうやって(現実社会で達成されていない)幸福を描きうるのか?はそれまで以上に考えていくことになりました。
    悲劇性を強調することは現状追認で差別を助長することであり、悲劇性を排除することは現実で起きていることを無視することである。
    作劇のために何かを選択しなければいけませんが、そのグラデーションの中でどんな選択をするのかには常に迷いがあり、何か歯切れのいい答えを持つこともできておらず、その度に立ち止まってしっかり考える、ぐらいしか結論は出ていません。
    しかし、1つの作品で全てを完全に達成することはできずとも、それぞれの視点でそれぞれの物語を紡ぐことで総体として多様な世界の存在を提示できることはできますし、それが映画表現の豊かさだとも信じています。
    『世界は僕らに気づかない』では見えなかった世界を、『そこにきみはいて』で表現したように(当然その逆も然りです)、横断的に継続的にクィアの物語を描くことでその豊かさを達成する一助になればと思っています。
    『そこにきみはいて』の話に戻りますと、健流の自殺が「悲劇的な死」であったのかどうか。
    原案となった短いテキストは、健流がクィアであり自殺をしてしまうことを想起させるものではありましたが、主眼としては「他者とのわかりあえなさ」として受け止めました。
    どれだけ近しくても、心を許した相手でも、ふとした瞬間にどうしようもなく一人であること・孤独であることに気付く恐怖みたいなものは誰しもが経験しうる感情です。しかし、とりわけマイノリティにとっては、自分を取り巻く社会のあちこちから孤独であることを突き付けられる状況が日常的に存在し、より切迫した問題です。
    自分を抑圧する家族・社会の中で、それでも抑えきれない欲動とそれをどこにも誰にも打ち明けられない絶望があり、その中で健流は死を選びます。しかし、彼の死の理由は誰にもわかりません。
    健流の婚約者であり主人公の香里は、劇中で呼称は使用していませんが「アロマンティック・アセクシュアル」です。香里が日々の生活の中で否応なく投げかけられる「レッテル」と、他者に理解されない絶望は、健流の絶望とリンクする部分もありますが、そんな香里でも健流の死の理由を掴みきれません。
    全く同じ経験をしている人間はいないので、誰しもがそのわからなさを抱えながら生きていくしかないのですが、それはとても苦しいことです。「なぜ?」は人の心を蝕んでいき、それを取り除くために香里は、健流の痕跡を探っていきます。
    ここから先は映画をご覧になっていただければと思います。
    香里と健流には、それぞれに固有の「名付けようのない感情」があります。それは2人のセクシュアリティだけに依存するものではありませんが、不可分でもあります。
    そのかき消されてしまうかもしれない、大きな声にはなりえない、輪郭もはっきりしていない、けれど確実に存在する感情は、映画というアートフォームが最も適切に掬い取ることができると思っていますし、その感情が必要な人に届けるために、この映画を製作しました。
    それはクィアのキャラクターが抱える痛み、感情、境遇を誰にでもある感情とすることではなく、その固有性・異なりを映画の中に見出すことで、自分自身でも気付かなかったかもしれない感情と向き合っていくきっかけとなればとても嬉しいです。
    『そこにきみはいて』は、死の理由に近接しようとすることで逆説的に死者との深い断絶と向き合うことになってしまった残された者たちが、どうやって自分たちの生を取り戻していくかを描いています。
    本作をご覧になった皆様が、香里と健流の物語を通じて対話や議論をしてくださることで、より豊かな社会を実現できればと思います。
         この企画で監督を務めるお話が来たときの心境について教えてください。
    まず中川さんから相談されたんです。やりたいと思いましたね。映画づくりってすごく大変だから、チャンスがあるならば掴みたい。つねにそう考えています。でも、彼から渡された原案を読んでみて、自分には無理だと思いました。テーマになっている“喪失”は、映画作家・中川龍太郎のテーマでもあるわけじゃないですか。自死によって友人を失う経験を僕はしていませんし、セクシュアルマイノリティの当事者でもない。果たして自分が映画にしていいものだろうかと逡巡していました。ただ、この物語を中川さんではなく僕が映画にすることで彼が少しでも救われるのなら、やってみてもいいのかもしれない。二つ返事で受けられる相談ではありませんでしたが、やがて決心しました。
         中川さんの原案を脚本に起こしていく流れはどのようなものでしたか?
    中川さんの過去について教えてもらって、ロングプロットを書きました。自死してしまった親友が彼にとってどんな存在だったのか、本当にいろんなことを話してくれましたね。ここで僕の口からは語ることのできないところまで、信頼のうえで共有してくれました。この脚本を書くのはとにかく大変で難しかった。テーマに関してもそうだし、原案の扱い方によっては余計な誤解を招いてしまう可能性もある。健流のセクシュアリティは自死の原因としても、物語を動かす力としても置いてはならない。この二点を前提としつつ、中川さんの原案を僕が映画にすることの意味や意義を重視していきました。
         主演の福地さんの存在も大切なインスピレーション源になったそうですね。
    福地さんについてもたくさんリサーチして、本人にもじっくりと話を聞かせてもらいました。彼女が話せる範囲内でパーソナルなことを聞き、どういう人間性を持った人物なのかを知っていきました。そしてそれが香里というキャラクターを膨らませる要素となり、この映画の重要な軸になっています。
         香里役が福地さんだからこそ、この物語を膨らませていくことができたと。
    大きいですね。それから原案を脚本に起こしていく過程で、僕と中川さんはもう会うことが叶わない人について語り合っているのだと気が付きました。これは映画の後半パートにおける香里と慎吾の関係性と重なります。どれだけ想っても、会うことはできない。そもそも僕はお会いしたことすらないわけで、中川さんとの関係性があったからこそ描くことができたように思います。とはいえ、書いた脚本を彼がどう受け取るのかを確認しながらも、そこでの意見に耳を傾けることに関しては慎重になっていました。僕が監督する意味が無くなってしまうし、この関係性で映画をつくるうえで、あまりいいことだとも思えない。それに彼には俳優に専念してもらわないといけないので。久保豊さんに脚本監修に入っていただき、客観的な意見をうかがえたことも大きかった。心強かったです。
         香里をはじめとする登場人物たちのキャラクター造形は、どのようにして立体化させていったのでしょうか?
    一見すると香里は、職場で責任を引き受ける立場の人に見えますよね。仕事では先輩としての役割をきちんと果たしている。けれどそれは、外から期待される振る舞いの一側面であって、彼女のすべてではない。状況に応じていくつもの顔があって、他者から求められる像と自分の輪郭のあいだで揺れているんです。これは健流や慎吾にも言えて、そうした人たちが物語の中心に立っています。
         この三者が人間の持つ複雑さをまとっているいっぽうで、その周囲のキャラクターたちは記号的な存在だという印象を抱きました。どれくらい意図されていたのでしょう?
    香里たちの周囲には、ある種の“分かりやすさ”を持った人たちを置くことで、中心の三人をより立体的に見せようという狙いがありました。それがこの映画の提示の仕方としてもスマートかなと。たとえば僕の過去作の『蜃気楼の舟』は、人物の描き方がまったく違います。でも本作の場合は物語の中心にあるのがとても繊細なものなので、その周囲に関してはできるだけ曖昧さを減らしていこうと考えました。簡単には言葉にできないものがこの映画の核にはあります。だからその周囲まで曖昧にしてしまうと、観客がうまくテーマに触れられない可能性が出てくる。登場人物たちの関わり合いの中で、自然と中心の三人やテーマが浮かび上がってくる構造にしたかったんです。本作はより多くの観客に届いてほしいし、香里たちのことを知ってほしいという思いがありました。
         俳優部のみなさんとの実際のクリエイションはいかがでしたか?
    メインの三人は空いている時間を見つけては本読みをしていましたね。『蜃気楼の舟』のときから、僕の作品ではひたすら本読みをするんです。その過程で、それぞれの演じる登場人物や物語の世界観のイメージを共有していく。一人で黙読するのではなく、他者のいる環境で声に出して読むことで見えてくるものって、けっこうたくさんあるんですよ。僕が香里や慎吾のセリフを読むこともありましたね。この反復の中で生まれたシーンやセリフもあるので、みんなで一緒につくっていった感覚が強くあります。人間ドラマをつくるわけですから、“実感”を得られるかどうかは大きいですね。
         撮影前の時間が非常に重要だったと。何か記憶に残っている印象的なやり取りはありますか?
    どの役もすごく難しいと思うんですよね。とくに福地さんは本読みの過程で生じた疑問を僕に共有してくれていました。この言葉が適切か分かりませんが、福地さんってとても勇気があるんですよね。自分の分からないことに真摯に向き合っていく勇気が。彼女が自分の演じる役を信じてくれていたことが、この映画づくりにおいて大きな力になりました。理屈で演技ができるわけではありませんし、理屈が分かったからといっていい映画ができるわけでもない。やっぱり彼女はこの映画の重要な軸でした。
         劇中では「走る」という行為/アクションが繰り返し描かれます。これは脚本段階から重要なアイデアだったのですか?
    香里と健流がペアで取り組む行為を描写したいと思っていました。二人だからこそ築けた、特別な関係がある。食事や運動は普遍的だけれど、そこには二人だけの特別な時間が流れているんです。いろんなことを共有し合える、二人だけのコミュニケーションでもある。それから、連続するカットの中で身体が速度を持つと、画面に感情が立ち上がる。健流のランニングは彼のキャラクターを示す大切な要素で、香里はそこから何かを受け継ぐように、一人で走り続けます。言葉で語りすぎたくはないのですが、健流がいなくなってからも、彼とともに生きた時間を大切にしているんだと思います。
         本作は竹馬監督のフィルモグラフィーにおいて、どのように位置付けられそうでしょうか?
    難しいですね……。観てくださった方々からは「これまでの作品とまったく違う」といわれるのですが、そもそも僕は映画作家としての自分のスタイルを限定しようとは考えていません。作品ごとに最適なスタイルがあるはずですし、扱うモチーフや描こうとするテーマによって、作風が変わるのは当然のことではないのかなと。 スタイルは自分で掲げるというより、結果として他者が見出すものに近い気がしています。何かを固定することは強さにもなるけれど、どこか危うさもある。だからスタイルを意識して寄せるより、まだ新しい可能性に懸けたいと思っています。映画づくりをはじめた最初の頃は、映画というものこそが自分の存在証明であったりもしました。そして、いつからか、ただ純粋に映画とは何かを知りたい——その気持ちが自分の中で大きくなってきたと感じています。だからいろんな手法を選ぶのだと思います。どの作品も特別ですが、これが僕の商業デビュー作になりました。これまでの集大成的な作品であり、これからのキャリアの節目的なものになるのではないかと考えています。


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